海だった日比谷
今の東京の姿からは想像しにくいが、日比谷のあたりはかつて海だった。 徳川家康が江戸に幕府を開く以前、このあたりは日比谷入江といわれる海で、その東側は陸が半島状に突き出しており、江戸前島といわれていた。 日比谷門跡から北上して、皇居外苑のあたりと和田倉門のあたりまでが日比谷入江だったようだ。 ということは和田倉濠、馬場先濠、日比谷濠、凱旋濠はかつての海で、埋め残された部分になる。 ちなみに和田倉門から近い桔梗門(内桜田門)や東京駅のあたりは陸だったが、そのあたりからは海が見えたのかもしれない。
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日比谷濠1(撮影)
日比谷濠の角から馬場先濠、和田倉濠の方向を望む
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日比谷濠2()
日比谷濠の角から凱旋濠の方向を望む
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日比谷濠に残る櫓跡の遠景()
石垣の角にはかつて櫓があった
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日比谷濠に残る櫓跡()
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鳥が憩う()
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鯉も憩う()
今に残る日比谷見附の石垣
日比谷公園に有楽門から入るとすぐ石垣が見えてくる。 「日比谷見附跡」と書いてあるからわかりやすい。 解説板もあって、この石垣は日比谷門の一部で、枡形や番所があったこと、西側の堀が心字池となったことが簡単に説明されている。 ここにある石垣は、高麗門の石垣だという。移築されたということだろうか。 さらにこの先、心字池にそって長い石垣が続いており、この上には登ることができる。 登ってみると、ベンチが数個設置されていて、そこに座れば目の前の心字池(かつての堀)をゆったりと眺めることができる。 このベンチから見える風景がかつての江戸城外曲輪で、この堀(心字池)と石垣は西側からの人の侵入を防ぐ役目があった。
余談だが、筆者がまだ二十歳くらいの頃、女の子と一緒にここへ来たことがある。 有楽町近辺で遊んで、暗くなってから日比谷公園に来て、この石垣上のベンチに座って話などをしていた。 ふとまわりを見ると、ほかのベンチもカップルでうまっており、なんだかイチャイチャしているではないか。 日比谷見附跡は現代ではそのような場所になっている。
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今に残る日比谷見附の石垣の一部 1()
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今に残る日比谷見附の石垣の一部 2()
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今に残る日比谷見附の石垣の一部 3()
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石垣と心字池()
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石垣一番奥の隅()
石垣は移築か?
この「日比谷見附跡」の石垣については、どのようにしてこれが出来上がったのか、移築されたものなのか、あったものがそのまま残されているのか、不明な点も多い。 はじめてこの石垣を見たときは、門のどのあたりの石垣なのかまったくわからなかった。
かつて日比谷濠のすぐ横にあった日比谷門は、現在では晴海通りとなっていて、すべて撤去されているはずである。 そうだとすれば高麗門の石垣だという角のきれいな切込接のものは移築なのだろう。 ではその先にある、上にベンチが設置されている長い石垣はどうなのか。 前面から見た(心字池のほうから見た)印象だと江戸時代からあったものが、そのまま残されているように思える。 それが裏にまわってみると、いかにも廃材を積み上げましたという、言い方は悪いが汚い感じになっている。 これは撤去した門の廃材を利用したものなのだろうか。この積み方は谷積(落積)だと思うが、そうであれば明治以降に積み上げたものだろう。 谷積について『城のつくり方図典』(小学館)には「江戸末期の新しい石垣にわずかに見られ、 明治以降になって積み直された石垣の多くは、低技術でも積める谷積となっている」という意味の説明がある。 このことから明治初期に門が撤去されたあと、廃材を積み上げたものと推測できる。
まとめると、道路にならなかったところに長い石垣が残っており、その角に高麗門の石垣を移築した(見た目がきれいだから?)。 さらに公園の設備として、この石垣に登れるように、裏側の廃材を積み上げて台状にし、 ベンチを設置して人々が憩う場所に、夜になればカップルがイチャイチャする場所にした。 そして目の前の堀は心字池となった。これが今のところの推論である。もっと調べて詳しいことがわかったらまた書きたいと思う。
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石垣の裏側1()
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石垣の裏側2()
細長い石が目立つ
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割り損ねの矢穴が残る石()
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矢穴の痕が残る石()