巨大な石垣と渡櫓
江戸城の門の多くは高麗門と渡櫓門を組み合わせた枡形門であるが、中之門は渡櫓門のみである。
現在は石垣だけが残されている。中之門の最大の特徴はその巨大さだろう。
石垣には江戸城でも最大級の巨石が使用されており、下の写真には通る人の姿も写っているが、
それと比較するとその巨大さがよくわかる。さらにこの上に、かつては巨大な渡櫓が存在していた。
二の丸から本丸への登城ルートはいくつかあり、そのひとつに中之門から中雀門へ入る大名登城ルートがあったという。
中之門はこのルートにおける正門であり、巨大な石垣、扉や支柱の礎石、
門内に敷き詰められた石製の磚などを見ると、その格式の高い門を想像することができる。
-
渡櫓門跡の遠景1(撮影)
巨大な石垣の上には、かつて渡櫓があった
-
渡櫓門跡の遠景2()
-
門跡に残る楚石1()
-
門跡に残る楚石2()
-
門の内側から見た石垣と、渡櫓へ入るための雁木()
現存する中之門(の石垣)はいつ築かれたのか
中之門石垣の手前には解説板があり、石垣修復工事についての説明がいろいろと書かれている。
この工事の内容についてはあとでふれるとして、最初に中之門はいつごろ築かれたのか考えてみたい。
解説板の「江戸城普請年表」を参考にすると、まず第1期の慶長度天守があがった1607(慶長12)年に藤堂高虎が中之門の縄張を行っている。
その後1657(明暦3)年におきた明暦の大火(振袖火事)によって、江戸城は西の丸を除くすべてを焼失したというから、中之門も被害を受けたはずである。
その翌年には熊本藩主細川綱利によって再構築され、これが現在の中之門(残っているのは石垣のみ)の原型と考えていいであろう。
せっかく築きなおしたのだが、その5年後の1703(元禄16)年、江戸幕府開府からちょうど100年の節目にあたるこの年に大地震がおきて中之門は崩落したという。
その翌年に今度は池田吉泰(幼名は松平右衛門督吉明)によって修復された。
現存している中之門石垣の巨石はこの時に積まれたもので、白い花崗岩は瀬戸内産、黒い安山岩は伊豆半島産だという。
中之門石垣修復工事
中之門石垣は長い年月の間に変形していたため、2005(平成17)年8月から2007(平成19)年3月にかけて修復工事が行われた。
工事のために解体したことによって、何点かの事実が明らかになった。解説板の説明を参考にして3つほどあげてみる。
1つ目は明暦の大火以前の中之門の遺構が出土している。これは『江戸図屏風』に描かれている中之門の遺構だという。
解説板の写真を見ると、今の石垣の内側にかつての礎石と石垣の遺構があるようだが、
これは大火以前の中之門は現存するものより小さかったということなのか、それとも築く場所が少しずれていたのか、
あまり細かいことまではわからないが、とにかく大火前と後では形状が違うということがわかる。
2つ目は1703(元禄16)年の大地震の翌年に池田吉泰が修復した時の刻銘がみつかった。
これによって池田吉泰が助役普請を命じられたということがはっきりとわかる。
最後に石垣全体から築石同士を連結する契り(銅製)と築石の据え付けに使用した敷金が銅製約40点、鉄製は約800点も出土している。
さらには大鎹も出土し、これは築石転倒防止のため、築石裏側に設置された石と連結した補強材で、
石垣としてはたいへんめずらしい、特異な構造だという。
中之門石垣の築石は35[t]前後の重量を持つ巨石が使用されているというから、
このような金属による補強と、大鎹を使うといった例外的な方法による補強が必要だったのだろう。
修復の際には交換された石もあるのだが、古い石は白い花崗岩が2つと黒い安山岩が1つ、計3つが解説板の前に展示されている。
大番所と百人番所
-
門の内側に残る大番所(撮影)
-
門の内側から見た石垣()
目の前にある百人番所が見える
-
中之門の前にある百人番所1()
-
中之門の前にある百人番所2()
-
百人番所の屋根瓦()