どこにあった?虎ノ門
虎ノ門は現在の外堀通交差点近くにあったようだ。堀にかかる橋は土橋で、高麗門と
渡櫓門からなる左折れの枡形門であった。
1731(享保16)年、大火によって一度焼失してしまい、高麗門、戸張番所、
枡形石垣の塀はすぐに復元したのだが、渡櫓だけ復元されないまま明治を迎えた。
明治初期に江戸城の門の多くは破壊されているが、虎ノ門の場合、渡櫓門の石垣だけは昭和9年まで残存していたという。
現在ではその遺構は何も残されていない。
虎ノ門周辺は堀も埋められてしまい、どこに何があったのか、現在では確認しにくい。
だが、かつて虎ノ門があった場所から西のほう、虎ノ門と溜池の間にあった石垣の遺構の一部が、
文部科学省の建て替え工事によって出土し、展示されているため見ることができる。
外堀最西南端の櫓台石垣
溜池のほうから見て行く。石垣は全部で4ヵ所あるが、順に「櫓台石垣」、「石垣1」、「石垣2」、「石垣3」として説明する。
新橋のほうから溜池へ向かって外堀通を歩いていると、左手に「国史跡 江戸城外堀跡 溜池櫓台」という案内板が見えてくる。
ここが櫓台石垣のある場所のようなのだが、うっそうと茂る緑の中に石碑が埋もれているだけで、石垣らしき物は見当たらない。
近くに何かあるはずだと思い、裏側へまわってみると、案の定石垣の遺構があった。
上から二段くらいしか見えていないが、きれいに隙間なく積まれた切込接の隅石である。
側面を見るとグシャグシャッと崩れているが、あきらかに人工的に加工された石垣の石である。
この石垣はずっと外に出ていたのだろうか。石の色が少し緑色になっている。
「石垣3」のところまで行くとパネルによる解説があるのだが、この解説によれば外堀石垣は1636(寛永13)年に構築され、
発掘区域の石垣は西から東へ(溜池のほうからかつての虎ノ門のほうへ)順に、
池田光仲、毛利高直、戸川正安、石道惣築(全員で築く)、九鬼久隆の4家が担当したようだ。
この付近の石垣は因幡国鳥取藩池田光仲によって構築されている。
光仲は1630(寛永7)年6月18日、備前国岡山藩主池田忠雄の嫡男として江戸藩邸に生まれた。
生母は阿波国徳島藩主蜂須賀至鎮の娘。父の忠雄は1602(慶長7)年、播磨国姫路藩主池田輝政の三男として生まれ、
生母は徳川家康の次女督姫富子(良正院)であった。なので光仲は輝政の孫、家康のひ孫ということになる。
1632(寛永9)年4月3日、父の忠雄が31歳で没すると、同年6月、3歳で家督を相続したが、
従兄の池田光政との国替えによって備前国岡山藩から因幡国鳥取藩32万石へ転封となった。
この付近の石垣を1636(寛永13)年に構築したとき、光仲自身はまだ7歳だったということだ。
藩主としては54年間という長さで在任したが、1685(貞享2)年6月に致仕して、1693(元禄6)年7月7日、64歳で没した。
-
外堀最西南端の櫓台石垣の隅石1(撮影)
-
外堀最西南端の櫓台石垣の側面1()
-
外堀最西南端の櫓台石垣の側面2()
-
外堀最西南端の櫓台石垣を離れて見る()
外堀の石垣1(旧教育会館前)
溜池櫓台からかつての虎ノ門の方へ歩く。現在の外堀通を渡ると「石垣1」がある。
外堀だからなのか、きれいに隙間なく積んだ切込接ではなく、粗い打込接のようだ。
積み石には矢穴のギザギザした痕も見られ、隙間が多くあるので間石が詰められている。
間近で見ているから余計に粗さが目立つのだろう。現存している外堀や内堀の石垣なら、
遠くから眺めることしかできないので、大体きれいに見えるのだと思う。
ここは備中国松山藩池田長常が担当した区域のようだ。
この池田氏は家祖が池田輝政の実弟池田長吉なので、備前国岡山藩池田家の支流ということになる。
長吉のあと、嫡男の長幸が家督を相続し、その長幸の嫡男として、長常は1609(慶長14)年鳥取にうまれた。
生母は美作国津山城主森忠政の娘。1632(寛永9)年8月、24歳で家督を相続したので、
1636(寛永13)年の外堀石垣構築の時は28歳であった。
だがそれから5年後の1641(寛永18)年9月6日、江戸において33歳という若さで没してしまった。
長常の世子は早世していたために徐封となり、長吉を家祖とする備中国松山藩池田家は3代で無嗣絶家となった。
-
石垣の全体像1()
-
石垣の全体像2()
-
石垣の接写1()
-
石垣の接写2()
外堀の石垣2(虎ノ門駅11番出口)
「石垣1」からかつての虎ノ門の方へ向かって少し歩くと、「石垣2」が見えてくる。
パッと見た印象は「石垣1」とさほど変わらない粗さの目立つ打込接で、隙間には間石が詰められている。
ここの石垣の最大の特長は、矢筈の形の刻印が刻まれている積み石が多くあることだ。
これは豊後国佐伯藩毛利家のもので、この家の家紋が丸に矢筈である。
この区域の担当は、明確な境界線はよくわからないが、向かって左側が豊後国佐伯藩毛利高直で、
右側が備中国庭瀬藩戸川正安である。左側の毛利高直は1630(寛永7)年毛利高成の嫡男として生まれた。
生母は信濃国飯山藩主佐久間安政の娘で、1633(寛永10)年に4歳で家督を相続している。
毛利氏といえば、「三矢の教訓」の逸話で有名な、元就のイメージが強いだろう。
元就は周防国山口藩毛利家のルーツでその家紋は「長門三つ星」、佐伯藩毛利家は「丸に矢筈」だから家紋からして違う。
この佐伯藩毛利家は、実は名族毛利氏とは別系統で、本姓は森氏だったという。
佐伯藩毛利家の初代となる高政は1559(永禄2)年に生まれ、豊臣秀吉の家臣であったのだが、
1581(天正10)年5月に秀吉の備中国高松城攻めに従軍し、毛利輝元との和議の際、
毛利方の人質として弟の吉安と共に預けられたことが縁で、毛利姓を名乗るようになったという。
その毛利高政の孫にあたるのが、この石垣を担当した高直である。
高直は早くに家督を相続したため、在任期間は31年間と長くなったが、1664(寛文4)年8月3日、35歳という若さで没している。
右側の備中国庭瀬藩戸川正安は、戦国時代に宇喜多直家の侍大将として数多くの戦闘に功をあげた戸川秀安の孫にあたる。
1606(慶長11)年、秀安の嫡男で庭瀬藩を立藩した初代みち安の嫡男として生まれた。
生母は岡元忠の娘。1627(寛永4)年12月25日、父のみち安が没すると、翌年2月に家督を相続した。
在任期間は43年間と長く、1669(寛文9)年5月22日、64歳で没している。
その後正安の孫にあたる安風が4代目を相続しているが、1679(延宝7)年12月2日、9歳で没してしまい、
無嗣のため戸川家は4代で徐封となっている。
-
石垣の全体像1()
-
石垣の全体像2()
-
石垣の接写1()
-
石垣の接写2()
-
石垣に刻まれた佐伯藩毛利家の刻印1()
-
石垣に刻まれた佐伯藩毛利家の刻印2()
-
石垣に刻まれた佐伯藩毛利家の刻印3()
外堀の石垣3(文部科学省校内 ラウンジ前)
「石垣2」からさらにかつての虎ノ門の方へ向かって歩く。文部科学省校内のラウンジ前に「石垣3」があり、
この石垣は地面よりも低い位地にあるため、階段で下に降りるようになっている。
石垣の前のかべには、江戸城やその石垣のことについての説明が書かれたパネルがあり、
このあたりの1636(寛永13)年の外堀石垣構築や石垣の刻印についても説明がなされており、
意味がわかると石垣の遺構の見学がよりおもしろくなる。
この「石垣3」の担当は手前が石道惣築、奥が摂津三田藩九鬼久隆で、
このあたりで堀は右に折れ、かつての虎ノ門に続いていたようだ。
石道惣築というのは「全員で築く」ということらしく、数種類の刻印が見つかったという。
摂津国三田藩九鬼久隆は、織田信長、豊臣秀吉に仕え、
水軍の将として戦功をたてた九鬼嘉隆の孫にあたる。嘉隆の四男守隆の五男が久隆である。
1617(元和3)年鳥羽に生まれ、生母は父守隆の側室で朝倉可慶の娘だという。
1633(寛永10)年に家督を相続、在任15年後の1649(慶安2)年1月23日、33歳という若さで没している。
石垣は同じく粗さの目立つ打込接で、隙間には間石が詰められている。
積み石の表面を見ると、汚いがすじ状の模様があるように見える。
はつり仕上げがなされていたのだろうか。劣化、風化によってわかりにくくなっているが、人工的に加工された跡にも見える。
刻印も探してみたのだが、有りそうで無い、見えそうで見えない、ちゃんと見たらあるのかもしれないがよくわからなかった。
-
上から見た石垣展示場の全体図()
手前が石道惣築、奥が九鬼久隆
-
下に降りて見た石垣の全体像1()
-
下に降りて見た石垣の全体像2()
-
石垣やや接写()
-
刻印か?()
-
石垣接写1()
-
石垣接写2()